「セレモニーとしての刑事裁判」に寄せられた批判について

だいぶ体調が復活してきたので、セレモニーとしての刑事裁判 - 諸悪莫作で書けなかったこと、書かなかったことについて書いていきたい。ただその前に、今更ではあるけれど、ブクマコメントや、トラックバックで寄せられた批判について触れておく。

id:torin 「事実認定の根拠が客観的に見て信用できるレベルではない」という要旨の前段の説明を抜いて引用・批判するのは我田引水じゃね?


はてなブックマーク - セレモニーとしての刑事裁判 - 諸悪莫作

その通りなんですけど、今回の差し戻し審の判決要旨を読む限り、被告人の新供述の信用性についてはかなり細かく検討されています。他の証拠との整合性から判断して信用性を否定したわけですし、その判断は妥当だと思います。そうなると「反省謝罪の態度とは程遠い」と評価されるのはやむを得ないと思いますし、そのような評価が不利な方向に働くのもまたやむを得ないと思います。


光市事件差し戻し審判決に関して1 - 妄想日記


これらの批判に対しては、「判決要旨に『太陽は西から昇る』と書かれてあったら、あなたはそれを信じるのですか?」と尋ねたい。なぜ判決の要旨のみを判断の材料として、「その判断は妥当だ」と言いきれるのだろうか。なぜそれだけで「反省謝罪の態度とは程遠い」と「評価されるのはやむを得ない」「そのような評価が不利な方向に働くのもまたやむを得ない」とするのだろうか。その論拠はいったいどこにあると言うのだろうか。


今回の判決がいかに奇妙なものであったのかについては、たとえば以下のような指摘がある。

Because It's There光市事件・差戻控訴審:広島高裁平成20年4月22日判決は元少年に死刑判決~広島高裁判決の問題点について検討
光市事件の続き - 冨樫とエミネムを応援する日記


また判断材料として、弁護側がどのような主張をしていたのかも欠かせないだろう。

光市事件における最高裁弁護人弁論要旨
こりずに光市の件 - 冨樫とエミネムを応援する日記


そして弁護側主張と検察側主張を比較するには(弁護団に属する安田氏の文章ではあるけれど)以下が詳しい。

司法の職責放棄が招いた弁護士バッシング (pdfファイル)


今回の判決が果たして、検察側主張と弁護側主張を突き合わせてその双方の詳細を公正に検討した結果、導き出されたものであったのか、それともそうではなかったのか。どうかこれらの文章を読んだ上で判断して欲しい。

死刑や終身刑についての覚え書き

引き続き体調不良なため、手短に。


光市母子殺害事件の判決を受けて、死刑制度の是非や、その代替としての終身刑の必要性について、問いかける意見が散見される。それらの意見や議論を読んだうえでの個人的な感想を、全く未整理ではあるけれど、自分自身への覚え書きとして記しておく。

人を裁き刑を執行するという暴力を、国家が制度として独占している――ないしは、市民の側が、制度に丸投げしている――という現状がある。死刑や終身刑をめぐる議論の多くは、その前提をまるで意識せず、結果として、単にその現状を追認するだけのものとなってしまっている。そのような意味で、それらの意見や見解の大多数を、僕はナンセンスだと感じてしまうし、全く首肯できない。
人を裁くということ、その結果として刑を執行するということは、どのような意味を持ち得るのか、持ち得ないのか。そして、まぎれもなく暴力と呼び得るそれらの行為の、行為主体はどこにあるのか。僕としては、まずそれらを整理したうえでなければ、吐き出される言葉は、単に現状を追認するばかりとなってしまうじゃないか、と言いたい。

セレモニーとしての刑事裁判

体調が悪いので、手短に。*1

被告人の新供述は、第1の犯行が殺人および強姦致死ではなく傷害致死のみである旨主張して、その限度で被害者の死亡について自己の刑事責任を認めるものではあるものの、第2の殺人および第3の窃盗についてはいずれも無罪を主張するものであって、もはや被告人は自分の犯した罪の深刻さと向き合うことを放棄し、死刑を免れようと懸命になっているだけであると評するほかない。被告人は遺族に対する謝罪や反省の弁を述べるなどしてはいるものの、それは表面的なものであり、自己の刑事責任の軽減を図るための偽りの言動であるとみざるを得ない。自己の刑事責任を軽減すべく虚偽の供述を弄しながら、他方では、遺族に対する謝罪や反省を口にすること自体、遺族を愚弄(ぐろう)するものであり、その神経を逆なでするものであって、反省謝罪の態度とは程遠いというべきである。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804222107049-n3.htm

第1審判決および差し戻し前控訴審判決はいずれも、犯行時少年であった被告人の可塑性に期待し、その改善更生を願ったものであるとみることができる。ところが、被告人はその期待を裏切り、差し戻し前控訴審判決の言い渡しから上告審での公判期日指定までの約3年9カ月間、反省を深めることなく年月を送り、その後は本件公訴事実について取り調べずみの証拠と整合するように虚偽の供述を構築し、それを法廷で述べることに精力を費やしたものである。これらの虚偽の弁解は、被告人において考え出したものとみるほかないところ、そのこと自体、被告人の反社会性が増進したことを物語っているといわざるを得ない。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804222107049-n4.htm

今にして思えば、上告審判決が、「弁護人らが言及する資料などを踏まえて検討しても、上記各犯罪事実は、各犯行の動機、犯意の生じた時期、態様なども含め、第1、2審判決の認定、説示するとおり揺るぎなく認めることができるのであって、指摘のような事実誤認などの違法は認められない」と説示したのは、被告人に対し、本件各犯行について虚偽の弁解を弄することなく、その罪の深刻さに真摯(しんし)に向き合い、反省を深めるとともに、真の意味での謝罪と贖罪(しょくざい)のためには何をすべきかを考えるようにということをも示唆したものと解されるところ、結局、上告審判決のいう「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情」は認められなかった。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804222107049-n5.htm


事実認定を争うことをもって「反省謝罪の態度とは程遠い」と見做されるならば、刑事裁判の被告となった当事者は、いかにして抗弁すれば良いというのだろうか? 刑事裁判が、検察側主張の追認が前提、被告はそれに対して情状酌量を求めることしか許されない、といった場であるならば、それはもはや、形骸化したセレモニーに過ぎない。それは茶番である、としか言いようがない。

*1:後で追記をするかもしれません。

コヤニスカッティ――平衡を失った世界

コヤニスカッティ”とはホピ族の言葉で“平衡を失った世界”を意味する。
映画 コヤニスカッティ - allcinema


自然な感情/感情の自然状態 - good2nd」経由で、「http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20080117」を知る。これは、id:kojitakenさんの

私なんか、あのテロが起きた時、アメリカはテロを起こされても仕方のない国だ、と思いました。辺見庸が、あの映像を見て快哉を叫んだ、と書いてますけど、それがリベラル・左派系の多くの人の感覚だったと思います。

というコメントや、

テロはあってはならないことですが、アメリカはテロを受けても仕方のない国、これは、この2001年の末に旧友と会った時、彼が口にした言葉です。私も相槌を打ちました。

といったコメントが「不謹慎だ」と批判を呼び、さらに、good2ndさんがこれらのkojitakenさんのコメントとその見解について「自然な感情/感情の自然状態 - good2nd」というエントリで

ある人々にそういう感情が現に生まれていることを認識し、その背景を考察することは必要でしょうが、そしてある程度共感することも場合によっては必要かもしれませんが、しかし考察のためにその同じ感情に飲み込まれてしまう必要はないのではないでしょうか。私達は、かつて「自然な感情」「当たり前の感覚」と考えられてきたことを、これまでいくつも乗り越えてきたのではないでしょうか。(…)そのように無批判に肯定された感情は、いわば「自然状態」にあると言えるんじゃないかと思います。政治や法によって人間社会の「自然状態」が克服されるとするならば、知性や想像力によって、そのような感情を支えている誤謬や偏狭や怨嗟を認識し、感情の「自然状態」を克服していくことだって(たとえわずかずつでも)できるんじゃないでしょうか。

と評した、という流れの応答になっているようだ。

そういったわけでこれらの応答は、kojitakenさんが度々「辺見が911に対し快哉を叫んだ」と触れているように、辺見の文章がひとつのきっかけとなって始まった、とも言えるのかもしれない。しかし不思議なことに誰も、その辺見のテキストを参照しようとはしていないようだ。僕の記憶が間違っていなければ、辺見が初めてそのような表現を使ったのは「永遠の不服従のために」に収録されている、「コヤニスカッティ」という一篇からだった。そこで、その「コヤニスカッティ」から、それがどのような表現だったのかを一部引用して紹介したいと思う。

あのテレビ映像を見ていたら、ついつい、映画『コヤニスカッティ』を思い出してしまいました。
フィリップ・グラス鎮魂曲が、十数年ぶりに耳の奥で低く鳴り響きました。
悲しみと不安と、そして、裏腹に、
快哉を叫びたくなる気持ちが胸にわきでてくるのを、
どうしても、どうしても抑えることができませんでした。(友人K・Sの葉書から)

(……)K・Sの正直な表現は、マスコミの偽りの常識を標準にするならば、不穏当とされるかもしれない。だが、じつのところ、少なからぬ人々の偽らざる内心を表しているように私には思える。葉書には「多くの人の命を道連れに、米国の象徴的建物に突っ込んでいったテロリストたちの、絶大な確信が哀しい」ともあった。同感である。いく千人もの罪もない犠牲者を悼む気持ちは、この場合、むろん、前提なのである。さはさりながら、私は別の思いを抑えることはできない。それは、ある種の絶望である。すなわち、テロリストの「絶大な確信」のわけと、米国に対する、おそらくは億を越えるであろう人々のルサンチマンの所以を、あの、C級西部劇の主人公のような大統領は金輪際考えてみようとはしないであろう、ということだ。(……)
テロリズムとは、こちら側の条理と感傷を遠く越えて存在する、彼方の条理なのであり、崇高なる確信でもあり、ときには、究極の愛ですらある。こちら側の生活圏で、テロルは狂気であり、いかなる理由にせよ、正当化されてはならない、というのは、べつにまちがっていないけれど、あまりにも容易すぎてほとんど意味をなさない。そのようにいおうがいうまいが、米国による覇権的な一極支配がつづくかぎり、また、南北間の格差が開けば開くほど、テロルが増えていくのは火を見るより明らかなのだ。圧倒的な軍事力で激しく叩かれれば叩かれるほど、貧者による「超政治」として、テロルはより激しく増殖していくはずである。(……)
仮構の構成能力、作業仮説のたてかた、つまりはイマジネーションの質と大きさにおいて、今回の事件を計画・策定したテロリストたちが、米国の(そして世界の)あらゆる映像作家、思想家、哲学者、心理学者、反体制運動家らを、完全に圧倒した(…)世界は、じつは、そのことに深く傷ついたといってもいい。抜群の財力とフィクション構成力をもつ者たちの手になる歴史的スペクタクル映像も、学者らの示す世界観も、革命運動の従来型の方法も、あの実際に立ち上げられたスペクタクルに、すべて突き抜けられてしまい、いまは寂として声なし、というありさまなのである。あらゆる誤解を覚悟していうなら、私はそのことに、内心、快哉を叫んだのである。そして、サルトルジル・ドゥルーズがあれを見たならば、なんといったであろうかと、くさぐさ妄想したことであった。*1

この文章が書かれた当時から、もうすでに7年近くが経とうとしている。いささかナイーブにも思えるこの文章は、しかし、あれから7年近く経った今という時においても、そこに含まれている虚無を、未だに私たちにつきつけている、とも感じさせる。この文章でほのめかされた「絶大な確信のわけ」は、たとえばガザで*2バグダッド*3、あるいは私たちが気にもかけない世界のどこかで*4、消えることなく残り、あるいは、今でも産み出され続けている。そして、それらの状況を主に産み出している一方の側は「金輪際考えてみようとはしない」という構図、それは、何ら変わってはいない。

辺見のこの文章は、このような状況を直観的に切り出したものだとも言えるし、また、「ざまあみろ」と快哉を叫んだり、「アメリカはやられても仕方がない」と主張するような、単純な感傷とは一線を画するものだ、と言うこともできるだろう。

しかしもし仮に、辺見のこの文章が、単に「ざまあみろ」と快哉を叫ぶようなものだったり、あるいは、「アメリカはやられても仕方がない」と主張するような意図を持つものだったとしたら、その場合は、やはり「不謹慎だ」と批難されるべきだったのだろうか?

911快哉を叫ぶ」といった表現や、「アメリカはやられても仕方がない」という主張に対して「不謹慎だ」と言うとき、そこにはたとえば、「罪もない犠牲者たちへの冒涜だ」といった想いや、「残された遺族たちを傷つけるものだ」といった想い、そして、「人の命の重さが軽く扱われるということへの不快感」などが込められている、と言えるだろう。そしてそれらの想いや意図は、「良識」に照らし合わせるならば、「自然な感情」「当たり前の感覚」なのだと、そのように多くの人が思うことだろう。

しかしここで、立ち止まって考えてみて欲しい。911の犠牲となった人々、彼らは、なぜ命を奪われなければならなかったのか。その原因を産み出したものは、一体何だったというのか。

911の起きた2001年の初頭、ニュースを賑わした話題の一つに、タリバンによるバーミヤンの大仏破壊があった。当時、日本でその話題を扱うメディアの多くは、そして、それに触れる私たちの多くも、タリバンのその行為は、「世界が注視する中で歴史的な文化遺産を破壊した、原理主義による偏狭な暴挙だ」としてしか取り扱わなかった。

さて、ここに約2000万人の飢えた国民がいる。そのうち30%は飢餓と政情不安のために難民となり、10%は死に、あるいは殺され、残りの60%は餓死寸前の状況にある。特に最近の干魃の後はそうだ。国連の統計によると、この数カ月のうちに、さらに100万人が餓死で死ぬかもしれないという。もし今、アフガニスタンに入国すれば、人びとが街角に倒れたまま放置され、死にかけているのを目にするだろう。飢えで動く体力もなく、戦うための武器も持たず、あの過酷な刑罰を怖れて犯罪を犯す勇気も残っていない。唯一の救済案は、そのままそこで死ぬことだ。それは、世界を覆いつくしたこの人類の無関心の中で起こっている。私たちの時代は、「人類は互いが互いの一部」であったサアディーの時代ではない。
まだ心が石になっていなかった唯一の人は、あのバーミヤンの仏像だった。あれほどの威厳を持ちながら、この悲劇の壮絶さに自分の身の卑少さを感じ、恥じて崩れ落ちたのだ。仏陀の清貧と安寧の哲学は、パンを求める国民の前に恥じ入り、力つき、砕け散った。仏陀は世界に、このすべての貧困、無知、抑圧、大量死を伝えるために崩れ落ちた。しかし、怠惰な人類は、仏像が崩れたということしか耳に入らない。こんな中国の諺がある。「あなたが月を指差せば、愚か者はその指を見ている」
誰も、崩れ落ちた仏像が指さしていた、死に瀕している国民を見なかった。衛星放送、メディア、新聞、ラジオ、テレビ、ファックス、電話、インターネット、このようなコミュニケーションのためのあらゆる機器は、何のためのものなのか。私たちはこうした道具そのものか、それを通して伝えられる決まりきったことだけを、眺めることしかしないのだろうか?ターリバーンの無知、彼らの原理主義は、アフガニスタンのような国の不吉な運命に向けられる世界の無知よりも深いのだろうか?

http://spiral_inspiration.at.infoseek.co.jp/afghanistan.html

もちろんこれは、911を産み出した構図の、ほんの一部に過ぎない、と言えるのかもしれない。ただ、このような側面からだけでも、やはりこのように言わなければならないだろう。「アメリカはやられても仕方がない」という言葉は、間違っている、と。つまり、私たちは「アメリカはやられても仕方がない」と言うかわりに、こう言わなければならない。「(彼らを見殺しにした)私たちは、やられても仕方がない」のだ、と。そして、「911快哉を叫ぶ」という表現も、確かに不謹慎なものだ、と言える。なぜなら、この現実に釣り合わないぐらい、その言葉はあまりにも軽いものだからだ。

しかしこれらの言葉は、果たして「ショックで言葉も出ない」と言うほどの、それほどの問題なのだろうか。本当に不謹慎と言うべきは、これらの言葉なのだろうか。率直に言えば、テロを歓迎する言葉なんて、本当に些細なことで、そんなものは問題にするに値しない。そんなものが、一体なんだと言うのだろう。本当に問題にすべき、もっと命を愚弄した振る舞いを、現に私たちはしているではないか。

バグダッドの街角で日常的に見られた/見られる光景を比較してみよう。
1つは米軍のイラク侵攻が始まるまえのもの。次は現在のものである。
ハイファ通りはバグダッドの中心部、チグリス川に沿って南北に走る。


イラクの街角風景(米軍侵攻前)
Video: Iraq street scenes (Before the invasion)


※ハイファ通りの死と混沌(こんとん)
Video: Death and Chaos On Haifa Street Iraq
http://www.liveleak.com/view?i=32dd9d6d46&p=1


サービス終了のお知らせ - Yahoo!ジオシティーズ

上に掲げた二つの映像を順に見た後で、イラクの人々を前にして、こう言い放つ自分の姿を想像してみて欲しい。「私たちはアメリカに基地を提供しています。また、ペルシャ湾アメリカの艦船に給油もしています。自衛隊も派遣しています。私たちの政府は、アメリカのイラク政策を全面的に支持しています。私たちは、そのような政府を選択しています。でも、私たちはあなた達を攻撃しているわけではありません。」

…このような書き方は、卑怯だと感じる人もいるのかもしれない。まるでプロパガンダのようだと、嫌悪感を覚える人もいるかもしれない。しかしこれが、この世界における私たちの振る舞いの、偽る事なき現実ではないか。

だから、真にテロの犠牲者を悼むのであれば、そして、人の命が軽く扱われることに憤りをおぼえるのであれば、私たちは、テロを歓迎する言葉を「不謹慎だ」として批判する前に、こう言わなければならない。「私たちは、私たちの社会の選択の結果として、彼らを犠牲にしてしまった、殺してしまったのだ」、と。そして、「その犠牲を産む原因となる選択を、今も現在進行形でおこなっているのだ」、と。

このような振る舞いを私たちがしている以上、テロを歓迎する言葉などよりも、

「やられても仕方が無い」、こうした発想こそが、世界中に憎悪の種を撒き散らす*5

このような言葉の方が、よっぽど不謹慎なのだとすら僕には思える。自分たちが"やられても仕方がない"振る舞いをしているにも関わらず、まるで自分たちが善意の第三者であるかのように、恥知らずにもそのようなことを言う、これは、欺瞞ではないだろうか。

そして、私たちの社会の無関心や、私たちの振る舞いによる直接・間接の結果として、多くの人々が圧倒的としか言いようがない困難な状況に陥り、そして、見殺しにされたり、殺されていったりする状況がある中で、そういった状況下で産み出された感情が、なぜ、「無批判に肯定された"自然状態"にある感情」などと言えるのだろう。このような言い方ほど、人間と言う存在を冒涜した言葉が他にあるのだろうか?*6

僕は冒頭の応答を読んでいる間、「まるで僕たちはマリー・アントワネットみたいじゃないか」という思いを抑えることができなかった。自分たちの狭い世界の中で、自分たちの振る舞いがどのような結果を招いているのかを見ることもなく、現実を置き去りにして、「"やられても仕方がない"という発想は不謹慎だ」だとか、「誤謬や偏狭や怨嗟を認識し、感情の"自然状態"を克服すべき」だとかおしゃべりをしている。まるでマリー・アントワネットが、無邪気に「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」、と言い放ったかのように。

最後に。

カリフォルニアの日光と顔に感じるあの冷涼な微風のなか、最も過酷なのは、厳然と繋がった二つの国の二つの現実が共存していると知ることであり、しかも、私自身の国のたいがいの人たちは、このことにほとんど気づいていない。


イラクでは、もちろん、異種のもの、相対立するものは何もなく、不断の容赦ない粉砕と苦難だけがあり、視界に終点の見えない悲劇的な絶望と落胆の状態が拡散しつつある。


ダール・ジャマイル「Eメールが伝えるイラクの地獄絵」 *7

この文章は米国について書かれたものではあるけれど、しかし、この二つの現実とは、今ここに生きる私たちの、この世界そのものではないだろうか。私たちの世界。私たちのコヤニスカッティ、平衡を失った世界――。




*1:isbn:4620315893, P52-56

*2:たとえば http://0000000000.net/p-navi/info/news/200801190158.htm

*3:たとえば http://teanotwar.seesaa.net/article/77657796.html

*4:たとえば http://agrotous.seesaa.net/article/79100900.html

*5:http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20080117

*6:蛇足だが、good2ndさんの「自然な感情/感情の自然状態 - good2nd」というエントリについて少し触れておきたい。僕はgood2ndさんが言うところの「自然状態」という言葉の意味が、残念ながら全く理解できずにいる。この言葉をごく一般的な意味で解釈するなら、「社会契約以前の状態」といった程度の意味になるだろう。しかしもし仮にそのような意味で使われているとするなら、たとえば、革命時に人々が見せる一瞬の煌めき――もちろんそれは、時として血生臭いものではあるけれど――それも、単に克服すべき「自然状態」の感情として扱われるのだろうか? また、乗り越えられるべき「自然な感情」「当たり前の感覚」や、「克服すべき"自然状態"の感情」といったものは、いったい誰が、克服すべき・克服すべきでないといった選択をおこなうというのだろう?

*7:via http://0000000000.net/p-navi/info/column/200708072036.html

悪について

浜松市で昨年11月、空腹のホームレスの女性が市役所に運ばれ、福祉担当職員らが取り囲むなか心肺停止状態となり、翌日死亡した。敷地内の路上で寝かされ、市が与えた非常食も開封できないまま息絶えた。「すべきことはやった」と市は説明する。(……)
市によると、11月22日昼ごろ、以前からJR浜松駅周辺で野宿していた70歳の女性が地下街で弱っているのを警察官が見つけ、119番通報。救急隊は女性から「4日間食事していない。ご飯が食べたい」と聞き、病気の症状や外傷がないことから、市役所へ運んだ。(……)
「職員が路上の女性を囲み、見下ろす異様な光景でした」とメンバーは振り返る。「保健師もいたのに私が来るまで誰も体に触れて容体を調べなかった。建物内に入れたり、路上に毛布を敷く配慮もないのでしょうか」。近寄った時、非常食は未開封のまま胸の上に置かれていたという。(……)
死因は急性心不全だった。女性の死亡後、市民団体などから抗議された市は、内部調査を実施。中区社会福祉課の対応について「空腹を訴える女性に非常食を渡し、収容可能な福祉施設を検討した。2回目の救急車も要請した。職務逸脱や法的な義務を果たさなかった不作為は認められない」と結論付けた。


http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080116ddm041040102000c.html


この報道に触れた時、強い憤りに駆られたことを正直に告白する。
しかし同時に僕は、この事件についてうまく語る言葉を見出せずにいる。
この状況があまりにも異常であり、私たちが「人間」と呼ぶものの何かが、決定的な何かが欠けているということは言うまでもない。だがここで強調されなければならないのは、この状況の前提として、この女性は「4日間食事していない」という事実がすでにあったということだ。
市役所の職員たちの見て見ぬふりが批難される、それは当然のことだと言えるのかもしれない。…しかし、ここに到るまで、この女性は何度見て見ぬふりをされてきたのだろう?そして市役所の職員たちにしても、このような判断をしてしまう、そこに到るまで、どのような日常の反復があったというのだろうか?いったい何が、私たちの心を――あえてこの様な表現を使うが――魂を縛ってしまうというのだろう。
まず己れの悪について語れ、と世界に対して叫びたい。私たちは往々にして――相対的に扱うにせよ、絶対的なものとして扱うにせよ――まず正義について語り出す。しかし己れの悪について掘り下げること無しに、一体何が語れるというのだろう。

言葉が生じるとき

あなたは普段、自分の行動を理解しているし、自覚に基づいて動いている、と見做している。自分の行動には理由があり、そして、他人の行動もまた同様に理由があってのことなのだ、と見做している。

同様にあなたは普段、眠りの中で見る夢の中でも、少なくともその中では、自分の行動を理解しているし、自覚に基づいて動いているのだと感じている。自分の行動には理由があり、そして、他人の行動もまた同様に理由があってのことなのだと感じている。

しかしその自覚がいわゆる日常の自覚と異なるとするならば、それは、眠りから覚めた後、その夢の中での自身の行動やその置かれた状況について、「全く非合理で、なぜそうなったのかが理解できない」と感じるからに他ならない。

さてここで、一つの問いを立てる。あなたは今、PCや携帯などの端末から、インターネットを介してこのブログを読んでいる。そのように思っている。しかしその状況は、そしてその確信は、いかにして生じてきたものなのだろうか?

「確信」という概念を定義付けることは難しい。しかしそれを単に「疑問を抱かない心理状況」と見做すなら、確信とは、体験に既に織り込まれているものだ、とも言える。私が今理解している状況、そのように見做している状態、そう、体験とはそのような理解を、確信をも含んで、今ここに生起している。

ある人が確信を持って行動する様子を見たとき、それに対して私たちは、時として「そのような行動は理解できない」と言ってみせたりもする。しかしある人に確信が生じるとき、それはちょうど、夢の中でのあなたがそうであるように、「それはそのような体験そのものなのだ」としか言いようのない何かが、その人に生じている。つまり、確信そのものを伴った、確信そのものが織り込まれた体験が、そこにあるのだ。

だから確信は、秘密へと通じる。私が抱く確信は、私と他人を、私と世界とを分け隔てる。だからそれはその人だけの秘密であり、世界との関係でもある。しかし同時に確信は、埋没へも通じる。疑うことのない心理は、機械的に私を世界へと埋没させていくからだ。

言葉が生じるとき、私たちはある葛藤に直面する。言葉は私たちの確信を後押しする。しかし同時に、そこにあったはずの確信から、私たちを引き離す。

言葉がわれわれに生じてくるのだ。われわれは深遠な不確定性の犠牲として、それに直面する。 *1

確信において存在したある種の一体感、神秘的な融即の感覚から私たちは引き離され、言葉を媒介とした世界が、そこに立ち現れる。

それを通じて「他者の意志」が表明されるすべてのことは、人間 ――人間の思考、言葉、イメージ、そしてその限界さえも―― から生じてくる。*2

このようなことにどのような意味があり、どのような設計であるのか、計り知ることなどできるのだろうか。しかしいずれにしても、まるで幼年期を離れ、青年期へと至るように、私は世界から分かたれ、歩んでいくことになる。

葛藤の問題に直面した人が、それを全く自分自身の責任において引き受け、自分を裁くため昼夜をわかたず坐っている裁判官の前において、それを引き受けるならば、自分が孤独な立場にあることを知ることになろう。今や彼の人生において、他と話し合うことのできない真正の秘密が存在することになる。*3

さて。

そろそろ仕事も体調も、だいぶ落ち着いてきた。だからいい加減、このブログも更新しておこうと思う。

ところでいつの間にか、はてなダイアリーに「はてなダイアリー日記の見出しを2段表示に - はてなダイアリー日記」なんて機能がついたみたいだ。これは、けっこううれしい。と言うのも、今まではタイトルにカテゴリのタグが付加されて表示されるということが気持ち悪くて、本当はカテゴライズしたい場合でもあえてカテゴリのタグを使っていなかったからだ。

たとえば個人的には、[メモ]だとか、[厨臭い文章]だとか、そういったカテゴライズをしたい場合がある。あえてそういったカテゴライズをすることで、「これは自分用に書いたものであって、皆様のご批評に応えられるものではないんですよ」というエクスキューズをつけることができるからだ。とてもセコい考えだし、そんなものはチラ裏でいいでしょう、と言われそうな発想ではある。

けれど、vir_actuelさんが「http://d.hatena.ne.jp/vir_actuel/20071104/1194202876」で書いているように、たとえ自分用に書いた文章であったとしても、他人の目を意識することは――自分用の文章であるからこそ――意味があるとも言えるのだ。