トリアージと選別

トリアージとは何の関係もない。/格差問題とトリアージを絡めること自体に政治的思想性がある。「トリアージ」を政治利用したのが元記事の問題点。故にこの記事の問題点でもある。


はてなブックマーク - z0racのブックマーク / 2008年5月26日

原語の「選別」と云う意味ならまぁ政治的にも思えるが、なら「選別」と云えばいいだけでわざわざ「トリアージ」などと云う馴染みのない言葉を使う必要はない。余計な誤解を与えるだけである。

また、医療技術の「トリアージ」ならば、その前提となる目的から切り離して語るのは全くの間違いである。設定された目的から合目的的・合理的に導き出された解を、その目的から切り離してしまえば意味不明になるだけ。

トリアージとは、「無条件により多くの命を救うべきである」という命題に対して合理的に考え出された解である。その合理性に間違いがあるのならそれを指摘すればよい。また、別の最適解があると云うのならそれを示せばよい。それが正しければ誰もが喜んで受け入れるだろう。「合理的」とはそういうことである。

また、前提命題に政治性があると云うのであれば、それを批判すべきであろう。前提が変われば当然解も変わる。前提が変わったからと云ってトリアージが間違っているわけではない。

さて、逆質問で申し訳ないが、トリアージの何処に政治性があるのですか?

私が読んだ範囲では、「トリアージ」を政治的文脈で語る方はおられても、どの方も「トリアージ」の何処が政治なのか説明されていない。


トリアージの何処に政治性を見出しうるか - z0racの日記


前トリアージ的選別とその延長線上に - 諸悪莫作」に対して、id:z0racさんから上記のブコメトラックバックをいただいた。と言っても、トラックバックの方は僕ではなくて、id:CrowClawさんとのやり取りを望んでいるようだ。でも、もともとの発端は僕のエントリにあるのだから、僕の方からも応答をすることにする。

さてまずは、id:z0racさんと僕の間にある、奇妙な論点の食い違いから明らかにしておきたい。id:z0racさんは『格差問題とトリアージを絡めること自体に政治的思想性がある』と述べている。どうやらid:z0racさんは、「トリアージ」という言葉に自分が信じている価値内容以外のものが付加されたり、それ以外の内容で適用されたりすることを――特に「政治性」を連想させる文脈に置かれることを――許しがたいことだと感じているようだ(違っていたら指摘をお願いします)。でも、ちょっと待って欲しい。だってこの状況を少し下品な譬えで言えば、こんな感じになるのだから。

「うんこを食べるのは体に良い。だからうんこを食べるべき」と主張する人がいた。それに対して「うんこを食べたら体に悪いし、そもそもうんこは食べるものじゃないんだよ」と指摘する人がいた。するとさらに、それに対して「こともあろうにうんこを体に絡めて話すことは許しがたい」と言い出す人が現れた――。

もしも「うんこを食べよう」という人に対して、「うんこは食べるものじゃない」と答えたら、それはうんこを批判したり、うんこを自分の主張のために利用したことになるのだろうか――なるわけがない。そういう意味では、僕はうんこ(トリアージ)の批判なんてしていないし、利用するつもりも全くない。

また、「うんこを食べる」ことは危険だけれど、また同時にうんこは体から排泄されるものだから、うんこを語る際には体という対象は不可分の存在なのだと言える。にも関わらず、「うんこを体に絡めて話す」ことを忌避する主張があったのだとしたら、それは、ちょっと奇妙な話だということになる。

さて、ここで話をうんこから本題に戻す。…うんこうんこ言ってごめんなさい。

人と人とが関わるとき、各々にそれぞれの価値観や損得勘定がある以上、そこには必ず、価値基準の相違や利害の衝突が生じるのものなのだと言える。政治とは広義にはそのような関係性の中での力学を指すものであって、議事堂の中や霞ヶ関のどこかでのみおこなわれるような、そんなものだけを指す概念では決してない。

id:z0racさんは

原語の「選別」と云う意味ならまぁ政治的にも思えるが、なら「選別」と云えばいいだけでわざわざ「トリアージ」などと云う馴染みのない言葉を使う必要はない

と言っている。しかし、ここには顛倒が存在する。これはむしろ、逆なのではないだろうか。

なぜ「トリアージ」という概念は、曖昧で当たり障りのないカタカナ言葉で呼ばれているのだろう。なぜ本来の意味である「選別」とは呼ばれていないのだろうか。「トリアージ」は「選別」を意味するのだから、直截に「選別」と呼ぶべきなのに、話者はそれができない。このような語法こそ、まさしく優れて「政治的」なものなのだと言える。そのような曖昧な呼称にすることによって、そこに発生するはずの価値基準や利害の衝突を、「トリアージ」は迂回する機能を獲得しているのだ。

トリアージ」はどのように言い繕うとも、その本質は「命の選別」に他ならない。通常であれば手厚い医療を受けるべき状態であっても、極限状況下では見捨てざるを得ない。その選別に「合理性」を付加することで機械的な処理を可能とする、それが「トリアージ」なのだと言える。(このように言うと「トリアージ」を批判しているように聞こえるかもしれないが、そうではない。ただ単に、取り繕うのはやめた方が良い、と言っているのだ。)

通常の状況下であれば助かったかもしれない人――もちろんそれはほんの数パーセント程度に「過ぎない」と言われるかもしれないが――も含めて選別する、それが「トリアージ」であるのだから、そこに利害や倫理上の衝突は間違いなく存在する。しかし僕たちは災害などの極限状況下に限り、本当に忸怩たる思いを持ちつつも、それを許容する。いや、許容はしなくともそれを選択せざるを得ない。しかしその状況とその判断自体もまた多くの人の利害の中から産み出されたものであるのだから、「政治的」であることは言うまでもない。つまり「トリアージ」とは、まさしく政治の産物なのだ。

さて、先に述べたように「トリアージ」という言葉はカタカナ言葉として呼称され、曖昧な、ぼかした概念として拡張の余地を持たされている。本来は極限状況下のみでかろうじて許容されていたはずの「選別」が、その曖昧さを伴って、拡大解釈されていく。

東京消防庁では平成19年6月1日から、119番通報を受け出場した救急現場おいて、明らかに緊急性が認められない場合には、救急隊はご自身での医療機関受診(自己通院)をお願いしております。ご本人の同意が得られれば救急隊は直ちに次の緊急出動に備えますので、真に救急車が必要な緊急性の高い傷病者のため、ご理解とご協力をお願いいたします。


東京消防庁<安全・安心情報><救急アドバイス><救急搬送トリアージについて>

こうして「トリアージ」は実に便利な言葉になった。経営上の失策や政治政策上の選別的な施策も、すべて「トリアージである」と言えば合理的な装いを持たせることができる、そんな錯覚をする人間まで現れるようになったのだ。多くの人が批判しているのは、まさしくそのような拡大解釈に他ならない。だから僕としては、id:z0racさんは憤りの矛先を間違えているのではないか、と感じてしまう。


さてこれらを踏まえた上で、「トリアージ」は「政治」と無縁と言えるだろうか。僕は、そうは思わない。


最後に。id:z0racさんはその内実を示すこと無く「合理的」や「最適解」といった言葉を使っているけど、そのような言葉の使用について、次のような憤りをおぼえる人もいるのだということを指摘しておきたい。

トリアージがどうの、最適解がどうのって話なんだけど、正直言って胸糞悪い。自分は研究室で社会なんてものを扱うにはずっとちゃちな数式の最適解を求める研究をしていてその程度のものの最適解を求めるだけでも七転八倒していたのだけれど、こういう思考停止をしたかのようにあっさり最適解だの、最適化だのをしれっと言うのには怒りを感じる。(……)
モノやシステムというものには何がしかの目的がある。例えば自動車の場合だと、早く移動したいという目的をかなえるためのものであって、何かとトレードオフに走る機能を無くすといったことはありえない。今回のトリアージの件でもそうだ。本来の目的は人を助けるであって、トリアージはあくまでも災害のような緊急事態に対して、現在の医療・社会システムが敗北した結果、トリアージを行うのであって、それは戦略的な行為でも最適化の結果でもなく敗北への次善策でしかない。(……)
本来いろいろな条件、目的で成り立つものをぶん投げて、まるでトリアージをすればそれは最適化がなされており、戦略的な行動であるなんていうのはひどく粗雑であり、ひどく非学問的でさえある


2008-05-27

この文章には、心の底から賛同する。

憲法と権利についての覚え書き

福岡天神での、メーデーデモ弾圧の件。
http://d.hatena.ne.jp/K416/20080501/1209644251
緊急速報 ―五月病祭2008に対する弾圧― | fuf blog
福岡県警によるデモ妨害に対する抗議申し入れ書 | fuf blog


抗議申し入れ書に対する県警側回答が、「まさしく法措定的」と言いたくなるぐらい、ふるっている。

  • 県警は、請願法の用件を満たしている文書であっても、そのタイトルに「抗議」という文言があれば請願を受理しない
  • デモ制止の現場で責任者が名乗らなかったのは、「犯罪を抑止」している緊急状況ゆえのことであり、それは「おかしなことではない」。
  • 副署長いわく、天神中心部には「小さなお子さん」や「体の弱い人」が歩いているので、無許可でデモをするのは危険である。
  • 福岡県警は、「憲法のことは裁判所が考えること」だという認識であり、警察は「憲法どうのこうのではなく、法律にしたがって正当に職務を執行している」ということですが、市民と「法律論議」をするつもりはないとのことです。警察は、恒常的に憲法に配慮するつもりもなく、その必要性もないと考えているようです。


※ 強調は引用者
警察への「抗議申し入れ」 | fuf blog

ところで最近、id:kenkidoさんが『基本的人権の、その「基本的」ということについて』と題して、「基本的人権」という言葉に付与されている「基本的」という形容についての考察を重ねられていて、とても勉強になる。

ワーキングプアーという現象の出現は、労働権の危機を根柢に胚胎している事態なのである。それはまた、生存権の具体的内容を、これまで思い描かれていたものから崩し毀たれたものへと、招き寄せて行きもするものなのである。この危険を意識していないと、とんでもないことになるのであるが、例えばまず、ワーキングプアーを、もっぱら若年労働者とか、非正規雇用者とか、そうした境遇の賃金水準の問題として見るに終始すると、(確かに、そうした現象が、最も顕著にそれを見やすいものであるが、しかし、)安定した雇用環境に居る中高年層と若年層との対立、あるいは正規雇用者と非正規雇用者との対立というところに話が進んでしまって、労働権の権利たる実質が脅かされていることが意識されない。そして次には、そうした議論では、労働権は、生存権と結び付けられてはいかないし、たとえそうしたことが為されても、生存権が「平和的」生存権と言われてしまっては、人間の存在が存在たるに必要不可欠であって、人間が生きるものたるが故に当然賦与されてしかるべきものである権利、すなわち、人権であるが、この人権が、その人が一員として帰属している国の政府の政治に対して、権利であることが見失われてしまっていて、結びつきようがなくなってしまう、ということになっている。

つまりは、人権というもの理解が、どこか深められないし、それは他ならず、人権の「保障」された状態の現実が、損なわれた内容のものとなっていくのである。そして、このあたりのことを、最近思い悩んでいると、ふと、基本的人権の「基本的」という形容詞が、何か訳ありのものだったな、基本権という概念が、どこか正体の知られないところがあったな、ということが思い出されてきた。それで、この話題をまずは、今書けるところで書いてみようか、と思ったのである。


http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20080514

そしてその考察の第3回目にあたるエントリの以下の内容は、先に引用した県警の言い分との間に強い相関を感じさせて、非常に興味深く、そして示唆的でもある。

ドイツ近代史は、周知のようにプロイセンを中心とする、北ドイツ連邦の成立を見ることになる。そしてこれにによって、ドイツは、統一国家への緒につき、「国家連合でなくして、連邦国家となつた」のである。そしてこの時には、北ドイツ連邦憲法(一八六七年)が制定される。更に時の流れを下って、やはりプロイセンヘゲモニーのもと、南部諸邦をいくつか加えて、プロイセン王がドイツ皇帝となるドイツ帝国が結成された。そしてこの時には、ドイツ帝国憲法が、先の北ドイツ連邦憲法を修正して、一八七一年に制定された。さて、この二つの憲法に於いて、基本権はどう扱われたかを見るならば、それらを列挙する条文が存しない、というものとなっている。
もう一度言おう。基本権を規定する条文を、それらの憲法は欠いているのである。(……)基本権は、各諸邦の憲法に既に存していた、という事情説明で、なにとなく納得・・・出来る訳が無い。納得するには、統一国家として、中央集権的な政治権力を確定するものとしてのみ、憲法が考えられていた、とすることしかない。そして、このような、政治権力を重視する立場からすれば、基本権は、人権として、憲法に明記するものではなく、もしそこに記されるとしたら、法律を以てして、その保障を図るところの権利として記されている、と看做される。(……)
ここに見られる、「基本権」というものは、法律を以てして、その具体的な内容を定めるところの立法の方針であるとする理解は、既にして、プロイセン憲法の特徴であった。それが、そのままに、北ドイツ連邦憲法ドイツ帝国憲法へと引き継がれたのである。このこと、頼りばなっしの水木惣太郎「先生」の本より引用する。
「旧プロイセン憲法の基本権はただ立法の方針を示しただけであり、その具体的な内容は法律を以て定まるものとされていた。英米法系の諸国のように憲法は直接に人民に拘束力を有し、且つ裁判上も援用されるものと異なり、憲法上の基本権が具体的効力を持つ為には特別の立法を要するとされたのである。すなわち基本権が法律によつて具体化されなければ、個人はこれによつて保護を請求することもできなければ、裁判所もこれを援用できないとされていた。特に旧プロイセン憲法施行後も、その基本権の規定に矛盾する法律が廃止せられずに可成り行なわれている。実際に基本権が法律の規定により具体的内容を定められたのは極く一部であり、多くは法律によつて具体化されないままに終わつている。而もこの場合には憲法制定前からの法律が行なわれているのであるから、基本権の規定は空文に等しい。従つて旧プロイセン憲法の保障は極めて外見的であつたという外はない。」


※ 強調は引用者
http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20080516


…なんだか引用だらけになってしまったけど、とりあえずの覚え書きということで。

前トリアージ的選別とその延長線上に

今更感が強く漂うけど、「はてな」からはじまった議論について。
僕はid:toledさんが書いたエントリ「あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 - (元)登校拒否系」で提示されている問題意識に深く賛同するんだけれど、このエントリのコメント欄やブクマコメント*1、そしてトラックバックされてきたエントリなどを見ていると、なんだか良くわからない批判が殺到している。

でもid:toledさんが言っていることは、それほど難しいことじゃあない*2。たとえば、多くの人にとってわかりやすいであろう卑近な事例をあげてみるとすれば、以下のような後期高齢者医療制度に関する読売新聞社説がある。

新制度は、あいまいなまま融通しあってきた高齢者医療費の会計を独立させ、都道府県単位の組織に運営責任を持たせた。従来の市町村単位より広域化したことで、保険財政は安定する。所得の多い高齢者には、応分の負担を求める仕組みも盛り込まれた。現役世代には、自分の保険料のうち、どれだけ高齢者医療にあてられたかも明示される。負担のルールを明確にしたことが、高齢者に冷たい制度と受け取られているようだ。
(……)
新制度の保険料算定式は複雑で理解するのは難しい。分かりやすく工夫した説明がないために、負担が増えた人は不満と不信を募らせている。低所得者や障害者向けに、自治体が独自に実施していた減免措置が新制度移行を機に打ち切られ、困惑している人がいる。年金からの保険料天引きを、これまでの負担に上乗せして徴収されているという誤解も根強い。説明を尽くし、必要な救済策を講じることが大事だ。


http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20080512-OYT1T00813.htm

生きていくためのリスクが高い世代――つまりはコストの高い世代――だけを選別して施策を実施するという、まさしく「資源の有限性の制約のもとでの再配分」の問題がここには存在する。この社説では、あくまでも問題は細かい運用と説明の不十分さにあるのであって、この施策そのものではないとしている。しかし、2006年のこの制度の成立時を思い返してもらいたい。この施策に対する社会的な議論は、果たして為されただろうか。また、この施策に対する明確な説明はあったのだろうか。そもそも本当に配分すべき資源は枯渇しているのだろうか。そして特定の世代のみを選別する、その根拠付けは――当然だが、同じ世代と言ってもその生活の有り様や経済状況は様々であるはずだ――一体どこにあるというのだろうか。このような施策が社会的な意思決定の過程のないまま、そしてその根拠も示されないまま、恣意的に策定され実施されてしまう。そのような社会のあり方を自明とし、それへの反発は短絡的で情緒的なものであるとする、そんな嫌らしさがこの社説にはある。また同時に、この施策そのものにも同様の嫌らしさが感じられる。

このような事例は何も後期高齢者医療制度に限らず、枚挙にいとまがない。さらに卑近でわかりやすい例をあげるなら、「新型インフルエンザワクチン接種に関するガイドライン (PDF)」があるだろう*3。ここではワクチン摂取の優先順位を規定していて、一見するとその優先順位はもっともらしく、妥当に見える。しかしここにも有限な資源配分に関する社会的議論の不在という問題――つまりは、特定の利害関係者のみによる意思決定――が同様に存在している。そしてそのような意志決定過程の問題は、危機的状況下になってはじめて露呈することになるだろう。

トリアージ」は極限状況下にのみ適用されるべき概念であり、それを拡張して使用することは愚かしいことであるとの指摘は、既に多くの人からなされている。しかしたとえば関東大震災にしても阪神大震災にしても、その被害は木造家屋の密集地帯――つまりは比較的富裕ではない層――に集中していたという事実が存在する*4。そしてこの議論の元となったエントリでは四川大地震について触れているが、その四川大地震においても類似の問題が指摘されている。

つまりは「トリアージ」は極限状況下においてのみ適用されるべき概念だと言えるけれど、平時においてもすでに、極限状況下での選別は先取りされているのだ。たとえば経済的弱者のような、現在の社会において社会的意思決定の過程から漏れている者は、前トリアージ的状況下においても既に、トリアージされるべき立場に置かれている。そしてその選択肢の量において、比喩的な意味を越えてあらかじめ選別されているのだと言える。これは「トリアージ」が、極限状況下においてより多くの人を生かすための方法論であるにも関わらず*5、平時における選別の理論に顛倒して適用されるのと裏表の関係なのだ。そしてその「前トリアージ的選別」の延長線上には、たとえば野宿生活者のように、明日の生活の保証も無いような、常態化した極限状況下に置かれている人々が存在する。彼らは「資源の有限性の制約のもとでの再配分」においては非存在として扱われる。なぜなら彼らは、その再配分を決定する過程からあらかじめ排除されているからだ*6

(本当は「かわいそう」という言葉についても触れたかったけれど、眠いのでここで一旦筆を置く。後で追記するかもしれません。 → 一部の注釈を追記しました。)

*1:http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/toled/20080523/p1

*2:と言いつつ、僕が全然誤読していたらごめんなさい。。

*3:ちなみに新型インフルエンザが流行した場合、日本では最大で210万人の死亡者が出るとの推計も存在する。ただしその数値の妥当性は僕には判断しかねるし、むしろ逆にこのような「脅威」は悪用されかねないという気もするので、そのような推計が存在するということを示すにとどめる。

*4:NHKスペシャル

*5:その概念自体の倫理的な妥当性はとりあえず置いておく。

*6:たとえばhttp://bund.jp/modules/wordpress/index.php?p=338

擬似科学批判をめぐって

id:demianさんやid:Apemanさんからいただいたご批判について。

http://d.hatena.ne.jp/demian/20080514/p1
「疑似科学と平和運動」について再び - Apeman’s diary


特定の専門領域に従事する人もしくは特定の専門領域に強い関心を抱く人が、その良心から、もしくは自身や先人達の積み重ねに対する責任感から、その専門性を発揮し、社会的な出来事に対して警句を発したり批判をおこなおうと考えることは――少し端折って書くと――自然なことであり、その誠実さのあらわれなのだとさえ言える。そして同時にたとえば僕のような半可通が、そのような専門家の意見に依拠して自身の見解を構築したとしても、それはある意味では当然のことなのであって、それ自体にはなんら批判される要素はないと言える。だからいわゆる擬似科学というものに対して、科学の領域にある人々が批判をおこなうということを僕は原則として問題だとは思わないし、専門領域外の人間がそのような批判をもとに自身の見解を構築したとしても、当然何も問題のないことだと考える。

また、「他人が傷つくような批判をするな」だとか、そのようなことを言うつもりもまったくない。批判というものは対象の認識の変更を迫るものであるわけだから、当然それは、必然的に暴力的であり得る。だからことさら批判の暴力性を語るという行為は、自身の問題を正視できない不誠実さから来るものだ、とすら思っている。

demianさんは

いわゆる「ニセ科学批判批判」をしている人の文章を読むと、こういうのを書いている人って切実に「これはまずいのではないか」と思うような体験がないのか、単に寛容な人なのか、なんなんだろうという。人によっては自分の周りの人たちは水からの伝言のことを話していてもそんなに真に受けてないし、何を騒いでるの?といったことを書いていたりもしますし。

と書いている。もしかしたらこれは、僕に対して書いているのかもしれない。けれども僕は、別に「ニセ科学批判批判」をしたいわけではない。また、擬似科学を巡る諸象について、実は切実に「これはまずいのではないか」と考えていたりもする。そして、とても重い問題なのだとさえ思ってもいる。それではなぜ僕は、demianさんのエントリに対して批判的なブクマコメントを書いたのか*1、そのことについて説明していきたい。


人は生きていく中で、自覚するにせよ無自覚であるにせよ、苦悩を抱えて生きていかざるを得ない。しかしその苦悩というものは実に個人的で、そして主観的なものでもある。その個人的な苦悩の体験に対して、社会の集合知が適切な回答を与えてくれるという保証は、実はどこにもない。特に今という時代においては、集合知は蓋然性があり、平均的であるものにあまりにも安易に限られている。だから平均的である限りにおいてはそれなりの回答が与えられ、不安も抱かず生きていくことができるけれど、同時に、そこから逸脱するような苦悩は「自己責任」の一言で片付けられもしてしまう。一回限りの個人的な例外は見捨てられ埋もれてしまう。そんな時代に、僕たちは生きている。

しかし同時に、この社会におけるあまりにも細分化しブラックボックス化した専門性の体系は、多くの人にとって、それぞれの領域において専門家がいるのだという錯覚を与えもする。そしてそれは、専門性を偽装することで、権威ある言葉を語ることが可能であるということをも意味している。

このような時代背景の中において、人が、何がしかの回答を得て安堵する、回答を与える存在を権威と見做すということは、当然あり得べきことなのだと言える。もちろん苦悩が背景にあったとしても、それ自体がその行為や言説そのものに対する免罪符になるとは必ずしも限らないし、むしろそれは批判されなければならないだろう。しかし同時に、それに対する批判が人間の苦悩そのものを隠蔽する方向で進むのであれば、それは、おかしなことだと言わざるを得ない。

demianさんは一番最初のエントリでこのように書いている。

これはもしや単なる「癒しの場」ではないかと(ぎゃー)。
(……)
なんというかエコ系のロハスでスピリチュアルな人の日記を読んだりすると議論以前に反知性主義なものを感じるくらいですので、まあ、無理でしょうねえ。


http://d.hatena.ne.jp/demian/20080513/p2

流通している及第点的な見解に身を置いて――つまりは知的に安全な立ち位置から――切断操作をおこない、そして対象の属性を固定するという展開を、僕はあまり趣味の良いものだとは考えない*2。そしてその人々の言説を批判するのではなく、そしてその人そのものを見ることもなく、その人そのものを侮辱するという行為を、僕は率直に言って軽蔑する。この demianさんが書いている状況は、先に書いた苦悩そのものであるように僕には思える。そうであるならば、これは果たして単に揶揄や嘲笑の対象として消費されるべき対象だろうか。そして、果たして批判されるべきはそのような "人そのもの" なのだろうか。それともそうではなく、そのような人々につけ入る言説であったり、そのからくりであったり、それらを産み出す社会背景なのだろうか。それは、言うまでもないことであるように僕には思える。*3

また、「切断操作をおこない、そして対象の属性を固定する」ということは、同時に対象に対する恣意的な空想を許容するということでもある。僕にはhttp://d.hatena.ne.jp/demian/20080513/p2で展開されている言葉が、実に論理性を欠いた、対象に対する恣意的な想像と投影とによって成り立っているようにしか見えない。なぜ――僕自身のレベルを棚上げして書くが――居酒屋談義レベルのコメントが、他者を罵倒し得る権威にまで昇格できるというのだろうか。そして、demianさんや Apemanさんからいただいたご批判について言えば、demianさんは僕も知らなかった僕の「心の声」まで聞いてくださったし、また、Apemanさんは勝手に文脈まで読んでくださったうえに、歴史修正主義者にまで比してくださったわけだけど、それって、多くの人が常々批判している藁人形論法と、いったい何が違うというのだろうか。

結局のところ問題は「擬似科学批判」かそうでないか、といった立ち位置の問題ではない。主体的な知的誠実さの問題なのであって、「ニセ科学」といった言葉やその立ち位置が、免罪符たり得るとは到底思えない。

*1:と言っても、字数の関係から言い尽くすことができずに、誤解されないように撤回した部分が今回問題とされたわけですが。もちろん凡そ小一時間程度はネット上に晒してしまったのだから、その播いた種の結果責任は取らなければならないでしょうね。

*2:が、僕も良くやってしまいがちであるということは、正直に告白します。

*3:もちろん擬似科学批判をおこなっている人々の全てが、このような論理展開をしているとは言いません。

誤解というよりも

「セレモニーとしての刑事裁判」に寄せられた批判について - 諸悪莫作に対して、sci98さんから応答をいただいた。

その中でsci98さんは

t_keiさんは私の発言をかなり誤解しているようです。誤解していないとすれば、かなり私と考え方が異なるようです。


光市事件差し戻し審の判断について - 妄想日記

とおっしゃっているのだけれど、僕としては誤解というよりも、なんだか話が噛み合っていないな、という印象の方が強い。僕にはsci98さんが、なぜ『被告人の新供述は死体痕跡との整合性がありません。一方、旧供述はそれがある』と判断したのか、その論拠が分からない。だから前回のエントリでも『なぜ判決の要旨のみを判断の材料として、「その判断は妥当だ」と言いきれるのだろうか』と書いたわけなんだけれど、残念ながら今回のsci98さんのエントリでも、sci98さんがなぜそのような判断に到ったのか、筋道をたてた理由は書かれていなかった*1

とりあえずわかっている範囲で了解すると、sci98さんは遺体所見の取り扱いをもって、今回の判決を妥当と判断したようだ。個人的には遺体所見に関わる箇所の判断に関しては、法医学的な知識が無ければ難しいと感じている。そのためその妥当性については、実際に資料が出揃った段階でおこなわれるであろう専門知識を持った人々の議論を参照してから判断しようと考えていた*2。だからその点について、sci98さんに解説していただけるのだとしたら、それはとてもうれしい。

ただその点を抜きにしたとしても、たとえば最高裁が自判せず高裁へと差し戻し、その際に「原則死刑」として、挙証責任や「疑わしきは被告の利益」といった原理原則を完全に逆転させてしまった点。そして今回の判決がその際の最高裁判断を原則踏襲するものであった点。また、sci98さんにはスルーされてしまったけれど、先のエントリで紹介したような数々の問題点の指摘。それらだけでも今回の判決の妥当性について、重大な疑義を抱くに十分であるように僕には思える。sci98さんはどうなのだろうか。

*1:つまり僕としては、判決要旨の主張をそのままコピペしたような内容ではなく、その内容についてsci98さんがどのように妥当と判断したのかを説明して欲しいと求めているわけです。

*2:もちろん「専門家」の権威ほど危ういものは無いけれど

「まぜるな危険」について

光市事件―置き去りにされたもの - 諸悪莫作に寄せられた以下のブックマークコメントについて。予期していた批判内容ではあるけれど、今のうちに釘を刺しておきたい。

id:yuki-esupure それとこれとは別なのよ なんでもごっちゃにするなよ
id:kisaragi18 生い立ちが悲惨でも罪を犯さず真面目に成長する人はたくさんいます
id:hatuseno 被告の生い立ちの話は知っていたがそれは母子殺害とは関係ない。虐げられた子供時代を送った人でも立派に成長している人も居る。まぜるな危険


はてなブックマーク - 光市事件―置き去りにされたもの - 諸悪莫作


光市事件のマスコミ各社の報道に対して、BPOは、次のように指摘している。

犯罪を裁き、あるいは調査・取材しようとするとき、犯行に先立って、あるいは犯行のさなかに、その人間の内面で起きた意識的・無意識的な情動を探ることが欠かせない。殺人のような重大犯罪の場合、被告の内面の動きがどのようなものであり、それがどう動機を形成し、いかにして実行に移されたのかを一連の、全体をなすものとして解明しなければ、犯行の計画性も犯行態様の意味も量刑も判断できない。


[BPO]放送倫理・番組向上機構の ホームページが新しくなりました。 | BPO | 放送倫理・番組向上機構 |

この指摘にもあるように、犯行に到る被告の内面や、動機は何であったのか、いかにしてその動機が形成されたのか、そしてそれがなぜ実行に移されたのかといった側面は、刑事裁判の量刑判断において重要な要素であると言える。それらについて事実認定がされない限り、当然、犯行の計画性やその形態についての判断はできないからだ。そして被告の生育過程や家庭環境は、そのような刑事裁判において、重要な判断材料となることは言うまでもない。残念ながら量刑判断に際して、被告の生育過程はまったく関係ないとする見解は、寡聞にして知らない。

犯行の形態やそれへの量刑判断と、被告の生育過程は関係がないと強弁する。一方で「被害者遺族の感情」は「まぜるな危険」とは言わない。そのダブスタは、いったい何だと言うのか。

また、「生い立ちが悲惨でも罪を犯さず真面目に成長する人はたくさん」いたとしても、そのような状態を社会として放置しているという現状を、いったいどう考えているのか*1。そのような状況が置き去りにされたという事実は、どうでも良いというのだろうか。


…あと、僕の文章の一部に脊髄反射するのではなく、できれば全体を読んだ上でその主旨を判断して欲しいなと思った。

*1:それにしても「真面目に成長」だとか「立派に成長」だとか。なんともアイヒマン的じゃないか!

光市事件―置き去りにされたもの

先の光市事件差し戻し審の判決は国民一般の感覚に沿うものであり、同時に被害者遺族の感情に寄り添うものであったと一般には言われている。実際、本村氏は判決に対して「納得している」とも語っているし、また、主にテレビからなるマスコミ報道での取り扱いもネット上の多くの声も、この判決によって正義が実現された、被害者遺族の無念が晴らされた、としているものが多数を占めている。

しかし多くの人々がそのように溜飲を下げ、そしてこの事件を記憶の中から風化させていくのとは裏腹に、本村氏の人生はこれからも続いていく。本村氏にとって妻子が殺されたという事実は厳然として残り、そしてこれから僕たちがこの事件のことを忘れようとも、彼は、その事実を背負って生きていかなければならない。

今回の事件について「社会が被害者遺族という存在を発見する契機となった」と評する意見もある。確かにそうなのかもしれない。しかし、犯罪に巻き込まれて傷つき打ちひしがれている人々は、何も裁判の時にだけ立ち現れる、そのような消費の対象では決してない。たとえ裁判の判決によってその当事者も含めた多くの人々の応報感情が満たされようとも、彼に起こった事実と、その生はそのままで残っていく。

そして、そのような犯罪被害者の多くは本村氏のような「ものを言う被害者遺族」だけではない。そのほとんどは本村氏のように注目を集めることもなく、そしてこれからの本村氏がそうであるかもしれないように、孤独に、自身を切り裂いた事実と向き合わなければならない状況に置かれている。

しかし先の高裁判決とそれを取り巻く状況は、そのような犯罪被害者の問題をただいたずらに、応報感情を満たすことへとすり替えてしまった。そしてその中では、検察側主張と被害者側の主張が同一であるかのように喧伝され、検察側主張の様々な矛盾は不問に付された。本村氏の主張を実現することが正義であると見做され、そして検察側主張や司法の判断がそれを代弁するかのように錯覚されたことで、それらもまた同様に詳細に検討されることもなく正義であると見做されることとなった。「被害者遺族の感情に寄り添う」ことが、まるで本村氏が苦しみの中で吐き出した言葉を、そのままに実現することであるかのように語られていった。それが本当に彼のような犯罪被害者に対して、社会が誠実に向き合った結果と言えるのかという点は、ついに論じられることがなかった。犯罪被害者に社会がいかに向き合うのかという問題、そして、彼らの傷ついた生は、そのままで置き去りにされた。*1

そして、先の判決によって置き去りにされたものはそれだけではない。

犯人の父親は、妻子への暴力が日常茶飯事だった。団地住まいであるため泣き叫ぶ声などから近所中に知られていた。幼い息子の目の前でその母親を執拗に殴り、怯える息子も見かねて止めに入ると今度は息子をぶちのめしたうえ風呂場へ引きずって行き水の入った浴槽に頭を突っ込み押さえつけるなど壮絶を極めた。母親の前に立ちはだかってかばったために、ぶん殴られて失神したこともあった。
耐えかねた母親は自殺し、首を吊って脱力し糞尿を垂れ流してぶら下がる母親の無惨な姿を見ながら11歳の息子は泣きじゃくっていた。そのあたりから普段の言動に異常さが表れてきて、近所で「あの子はおかしい」「かわいそうだ」「父親があれでは」というような噂がささやかれていたところ最悪の事態となり、こうなる前になんとかしてやれなかったかと悔やまれていることが地元紙で報じられたことがある。
こんな状態だから、少年はいつもおどおどしていて、学校ではいじめに遭い、あいかわらず父親の暴力は続き、高校生のときには鼓膜を破られた。最後の暴力は、あの忌まわしい事件を起こしてしまう前々日であった。つまり、逮捕されてやっと父親の虐待から解放されたのだ。
こんな事情があるのになんで最初から裁判で問題としなかったか。そう疑問に思う人たちから、最初ついた弁護士は責められた。けれども、被告が未成年者であるため親の意向に従わないといけなかった。だから言いたくても言えなかった。言えば被害者に知られて親の責任ということで損害賠償請求される。それを父親は恐れたというのだからひどい話である。弁護団を途中で離れた今枝弁護士も、前の弁護士がいいかげんだと最初は思っていたが、あとからこの事情を知って怒れなくなったとインタビューで言っていたほどだ。


子供ばかり責められるのはなぜか : 楽なログ

誤解を怖れずに言うならば、彼もまた、虐待という犯罪の被害者だった。しかし彼の凄惨としか言いようがないこの生い立ちも、近所の無関心も、そしてこのような虐待が放置され、なんら社会としての対応がなかった、社会としての対策が機能していなかったという事実も、「被害者遺族の感情を考慮せよ」の大合唱の前にすべて置き去りにされてしまった。多くの人が彼の主張を聞いて「荒唐無稽だ」と憤った。しかし彼の生育過程と、もしかしたら本当にそのような「荒唐無稽」な判断しかできなかったのかもしれないという可能性はついに顧みられることがなかった。そして今、僕たちの社会の合意の結果として、彼はくびり殺されようとしている。

すでに多くの人が指摘しているように、最高裁が自判せず高裁判決を差し戻した時点で、この裁判の結果は――つまり死刑という判決は――既定の路線として定まっていたと言われている。このような司法のいびつさは、内閣が最高裁判所長官を指名し、そして最高裁下級裁判所の裁判官指名権を持っている…といった、縦型社会となることが必然と言える司法の世界の構造的な問題から来ていると言われている。

そのような意味では、この判決を出した判事がたとえ憲法76条第3項*2の良心よりも最高裁の敷いたレールの上を走ることを選択したのだとしても、それはただ単に、彼は彼の住む社会のルールに従っただけに過ぎないのだと強弁することもできてしまうのかもしれない。

このようなアイヒマン的誠実さは、何もこの判事に限った話ではない。たとえばこの社会では待遇に不満があったとしても、労働争議をおこそうと考える人は少ない。多くの人はむしろそのような状況は、自身の適応の努力によって克服されるべきものだと考えてしまう。日々、社会に適応することに汲々とし、それをライフハックと称する。その生の内実ではなく、単に今の社会への適応の度合いをもって、下流だ、勝ち組だ、負け組だ、マッチョだと呼称する。個々人の良心や判断ではなくその適応の度合いが求められる今の社会では、むしろ、アイヒマン的であることが求められていると言っても過言ではない。

橋下大阪府知事が先に人件費削減案を発表した際、最も市民からの批判が多かったのは、警察官の削減計画に対してなのだという。その事実は、多くの人々が自身の生活をあまりにも脆く儚いものだと感じ、そして同時に、この社会から護られたいと願っているのだということを示している。生き残るために社会に依存し、そして同調する。自身の生活を脆く儚いものだと感じ、不安が他の何にも勝るために身動きがとれずに、その依存と同調とを高めていく。

犯罪被害者の傷、虐待を受けた被告の傷。それらの傷が置き去りにされてしまったように、この社会に暮らす一人一人の生、その傷もまた同様に置き去りにされてしまっているのではないだろうか。アイヒマン的誠実さが求められるこの社会で、一人一人の生のどれほどの傷が置き去りにされているのだろう。適応に汲々とするその中で、どれほどの怒りやわだかまりが置き去りにされているというのだろうか。そして、そのわだかまりを抱えた生の中で、それ以上に傷つきたくないがために、既成事実を追認し、より社会に依存し、そして同調するばかりなのだとしたら、そんな社会、そんな生を、一体誰が喜ぶというのだろう。そして自身のそのような状況を直視できずに、ただいたずらに、社会が示す悪を叩くことでそのわだかまりを晴らすのだとしたら、そこに正義や公正さなどありはしない。そのような生は、社会は、ただ、悲しいだけではないのか。


最後に、このエントリを書いている最中、ユングの次の一文を思い出したので引用したい。

全体としての社会の倫理性がその社会の大きさに反比例するということは、周知の事実である。個体が集まれば集まるほど、ますます個人的要素は消され、それとともに、もっぱら個人の道徳感情と、そのために不可欠な自由にもとづいている倫理性も消滅するからだ。したがって、個々人は、たったひとりで行動しているときよりも、社会の中にいるときのほうが、ある意味で、無意識的により劣った人間である。というのも、彼は社会によって担われており、その分だけその個人的な責任を免除されているからだ。巨大な社会は、(……)その道徳性と知性においては、愚鈍で乱暴な一頭の巨獣に等しい。(……)さて、社会が個々の成員のうちに、集合的な資質を強調すると、それとともに社会は、あらゆる平凡さを賞揚し、安直かつ無責任にただもう植物的に生きるのにおあつらえむきのものばかりを賞賛することになる。個人的なものが壁際に押しのけられるのは避けられない。(……)今日の人間は、道徳上の集団的な理想に多かれ少なかれ自分を合わせているため、自らの心に鬱積したものを抱えこんでいる。(……)そして、彼がその環境に正常に「順応して」いさえすれば、その社会のいかなる極悪非道も、彼の心をかきみだしたりはしないだろう。同胞の大多数が、彼らの社会組織の高い倫理性を信じて疑わない限り。


自我と無意識 (レグルス文庫), P60-61 *3

今この社会では、既成事実が既成事実のままで、ただただ追認されていくという状況が蔓延している。ガソリン税の値上げはまるで天災でも起きているかのように報道され、そして買いだめといった個人の努力で対処することばかりが強調され、抗議の声が組織されることもない。光市の事件と同様に二名が殺されるという痛ましい出来事であったイージス艦愛宕の事件は、社会から広範な怒りを得ることもなく風化し、その風化したという既成事実だけが残るばかりとなった。米兵が中学生少女を暴行するというやり切れない事件は、米軍が非難されるや否や、光市の事件とは逆に、むしろ被害者少女の落ち度をあげつらう声が巻き起こり、沖縄が置かれている状況の本質的な問題は既成事実のまま温存されることとなった。

社会に依存し護られることを望むのだから、社会体制や既成事実への抗議は自身の生活を破壊するものとして憚られる。その一方で厳罰化を望む体制の意向に親和的な本村氏のような被害者遺族の怒りは、誰しもが同調できるものとして歓迎された。その怒りの結果としての厳罰化は、自分たちの手で正義が実現されたかのような、そんな錯覚をおぼえることができた。しかし、本当の意味で犯罪被害者に寄り添うとはどういうことなのかという視点や、被告がなぜあのような主張をしたのかという視点はすっかり置き去りにされた。そして、ただただ獣のように荒れ狂う、怒りの結果のみが既成事実として残った。

*1:ところでネット上では、先の高裁判決を受けた本村氏の言葉に「深い感銘を受けた」と語る人々を多く見かける。しかしそのような人々に対して、僕は強い憤りとともにこのように言いたい。あなた方は、人が他人の死を望み、そしてそれが達成されるという事実の重みをどのように考えているのだろうか。彼は今まで、十分に苦しみ続けてきたのではないか。そのうえなお、あなた方は人殺しの責まで彼に負わせようというのか。結局のところ、あなた方は自分の感情のことばかりで、彼のことなどどうでも良いのではないか。

*2:「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」

*3:ちなみにこの論考は、1928年に出版されている。あえて理由は書かないが、この事実は強調しておきたい。