「望ましい皇族」というフィクション

このエントリはid:sukezaさんの「IDコールへのお返事 - empty island」への応答です。


sukezaさん、もしもsukezaさんが次のような人生を歩むことになったらとしたら、それは、幸せなことでしょうか。

好きなように発言をしてはならない。自分の感情をそのままに表現することは許されない。もちろん車を好きなように購入することなんてできない。自分の意志で旅行には行けない。当然、京都に行ってユニオン・エクスタシーの座り込みを見物することなんてできない*1。選挙権も持っていない。決められた公務だけを、淡々とこなし続けなければならない。たとえ本当はそうでなかったとしても、人格者であるかのように常に振る舞い続けなければならない。生活上、当たり前だと思われているありとあらゆる権利が剥奪された、憲法で保証されているはずの基本的人権すら認められていない、そんな生活。

hituzinosanpoさんが「天皇を あがめてみせるのは ひきょーだ。だって、天皇制っていうのは ドレイ制度じゃないか。天皇制の主体は、いったい どこにあるのだ。 - hituziのブログじゃがー」でおっしゃっているように、天皇制とは特権的でありながら*2、同時に、ある意味では奴隷制のようなものだと言えます。生まれで人を規定するという意味では、カースト的だ、と言うこともできるかもしれません。

sukezaさんが「望ましい皇族」と言う時、その先にいるはずの個人は、たとえば明仁さん個人は、けっして見えてはきません。なぜなら、彼は制度を逸脱して振る舞うことが許されてはいないからです。そこに見えてくるのは個人ではなく、あくまでも制度と社会の願望の投影によってつくりだされた、フィクショナルな存在なのです。天皇という物語です。

sukezaさんは「望ましい皇族であり続ける限り」とおっしゃいましたが、実際には彼らが主体的に「望ましい皇族」像から逸脱した生き方を選択することは許されてはいません。彼らのそのような生は、法律上の規定を超えて、彼らがどのように育てられ、どのような制度によって生活が構成され、そしてどのように社会からの願望を受けているのか、そういった様々な要素によって規定されているのです。そのようにして「望ましい皇族」像を生きさせられる、それが天皇制という制度です。

日本国憲法は前文のあと、次の第一章 第一条から始まります。

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く


僕はこんなものに同意した覚えはありませんが、なぜかあらかじめ同意したことになっています。このように天皇という存在は、この社会において、所与のものとして存在しています*3

この第一章がある限り、この日本という社会とはこのようなものだと言えるでしょう ――― 人間を「象徴」として扱うというグロテスクな行為に、なんら疑問を抱かない社会。生まれによって人が規定されることに、そしてそれが制度的に支えられているということに、なんら疑問を抱かない社会。

sukezaさんは「天皇制の批判は決してタブーではないと思います」「廃止を含めた議論や批判もある程度行われています」とおっしゃいましたが、本当にそうでしょうか。

たとえばテレビの生放送で、明仁さんにタメ口をきいたコメンテーターがいたとしたら、彼はどうなるでしょうか。もしくは、天皇制廃止に言及したとしたら。そのような発言の自由は、確かに法によって保証されています。しかし実際には、そのような発言は誰もしないでしょう。なぜなら、物心両面にわたる猛烈なバッシングにさらされ、社会的に抹殺されることを誰もが知っているからです。天皇制に対する発言がもとで物理的な暴力にさらされ、亡くなった人さえも大勢いるということは、少し調べるだけでもわかると思います*4

そしてそれは個人だけではなく、それを報道する大手メディアも同様です。彼らはけっして天皇制の根幹にかかわるような批判はおこなわないでしょう。大手メディアの場合、単にバッシングにさらされたりスポンサーを失うから、ということだけではなく、そのような批判は各種官公庁からの便宜や、記者クラブなどの、彼らの持つ特権的地位を失うことをも意味しているからです。そして実際、大手メディアの中には天皇の呼称であったり、敬語の使い方であったりを規定したマニュアルが存在しているし、それを逸脱するような報道がなされるということはないのです。

この社会では、法で保障された自由の前に、委縮や自粛といったものが存在しています。天皇制批判があったとしても、それはせいぜい独立系メディアや部数の少ない出版物、そしてここのような場末のブログだけです。その影響力は残念ながら、今は微々たるものと言えるでしょう。

このようにして、所与のものとしての天皇制は維持されています。彼らが「望ましい皇族」だから敬意を集めているのではなく、そのようなものとしてあらかじめ存在しているのです。敬意は、人間明仁に対して集められているのではなく、天皇という物語に対して集められているのです。明仁さんなんて、誰も見ちゃいない。

だから僕は「望ましい皇族」なんて錯覚なんだと書きました。実際、人間をそんなものとして扱う制度、社会なんて、くっだらねぇ、吐き気がするぜ、って思いませんか。そんなもの、ぶっつぶしてしまった方がいいと思いませんか。

*1:車や京都の話題はsukezaさんの前エントリを読んで加えました。気に障ったらごめんなさい。

*2:たとえば皇族の生活は莫大な税金で維持されていて、彼らは生まれながらにして衣食住に困ることもないし、高度な教育を受けることも保証されています。彼らには国籍という概念もないわけで、それは特別永住資格どころの話じゃないですね。最近、「在日特権」とかいう謎の都市伝説が一部で話題になっていますが、それを信じる人々が「皇族は特権的だ!許せない!」って叫ばないのはとても不思議なことです。(いや、本当は不思議じゃないんだけど)

*3:この「総意」という言葉については、コメント欄で引用した金森徳次郎の答弁も参照してください。(この注は4月16日に追記しました。)また、辺見庸いまここに在ることの恥」も参照のこと。(ふと思い出したので4月17日に追記。)

*4:もちろん、天皇の名のもとに死んでいった人間の数は、そんなものじゃない。そのことへの反省があるのなら、そもそも天皇制なんて即座に廃止するべきなのです。

固有性の棄却

少し遅くなってしまいましたが、「個人に依拠する」ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。への応答を書いていきたいと思います。

mojimojiさんの書かれた応答を読んだ感想を正直に書けば、僕の伝えたかったことがうまく伝わっていないな、という印象を持っています。mojimojiさんは、あくまでもご自身で定義された「民族主義」について、そしてその問題について書かれています。僕への応答もそれが前提になっています。でも僕は、その「民族主義」の問題そのものではなく、「民族主義」という言葉の使われ方を問題としているのです。

もっと具体的に書きましょう。今回の話は「在日」というコミュニティを巡る議論が発端となっています。でも、「在日」というカテゴライズはアプリオリに存在するものではありません。この前提は共有できると思いますが、「在日」というカテゴライズが存在するには、彼らを取り巻く状況と、その経緯や歴史がまずなければなりません。

つまり「在日」というカテゴライズは、必ずしも彼らが主体的に選び取ったというわけではありません。僕たち「日本人」が存在することによって、僕たち「日本人」との関わりがあることによってはじめて存在するものです。彼らが自分たちの民族性に向き合うということは、その状況と向き合うということでもあるのです。

そこには関係性からなる固有の文脈が存在します。mojimojiさんは「個人に依拠する」とおっしゃいます。でも、自身の置かれている固有の文脈、固有の関係性とそこから派生する固有の責任とを抜きにして、「個人」というものは存在し得るのでしょうか。それらを抜きにして存在する「個人」とは、いったいいかなるものなのでしょうか。僕は、そんなものは存在しやしないと思います。

そして先のエントリ*1で書いたように、彼らにだけ「民族アイデンティティ」が見出され、「日本人」の同様の営みは普遍的なものとして扱われる、という状況があります。それは、固有の関係性から派生する固有の責任というものを、僕たちが引き受けていないということを意味しています。

彼らが、その取り巻く状況によって「在日」となったように、僕たちは逆に彼らから問われることによって「日本人」という存在になるのです。その固有性を棄却して、一足飛びに普遍性に身を置くことなどできはしない。

そしてその責任を引き受けない「日本人」が「民族主義は余分」と言う。僕が「在日」の人であれば、「お前たちにそんなことは言われたくない」「お前たちにそれを言う資格はない」と返すでしょう。

mojimojiさんはそのような批判は成り立たないとおっしゃるかもしれません。しかし僕は、このような反応は全く正当なものだと思います。

そしてこのような非対称な文脈の中で「民族主義」という言葉が使われた場合、どのように作用するのか、どのようなパフォーマティブな作用が働くのかは先のエントリで書いた通りです。

そしてもう一つの論点ついても、もう一度、別の視点から述べてみたいと思います。mojimojiさんは民族主義を次のように規定しています。

自らのアイデンティティの基盤として文化や言葉や歴史に依拠することそれ自体ではなく、ある文化や言葉や歴史に依拠することを「そうあるべきこと」として提示しようとする発想


でも、何かに依拠し「そうであるべきこと」として提示することは、何も「民族主義」に限った話ではありません。それは全てのイズムに言えることです。それが抑圧的に作用し得るか否かということも、全てのイズムに言えることなのです。

そしてこれはどのイズムにも言えることですが、同じカテゴリにカテゴライズできるイズムであったとしても、その依って立つところ、その可能性、その発展は多様なのです。

エドワード・サイードがイクバール・アフマドについて語った一文に、次のような一節があります。

(イクバール・アフマドは)アラブ人たちに、アラブ主義は、狭小な民族主義であるどころか、ナショナリズムの歴史からみてもきわめてユニークなものであって、それは境界を越えたものとみずからを結びつけようとしてきたのだと説いた。アラブ主義は、言葉と感情のみによって結びつけられた普遍的な共同体を想像する一歩手前のところまできている、と。その感ずるところと、その言語と、その文化においてアラブ人である者は誰でもアラブ人である。そのためユダヤ人でもアラブ人になれる。キリスト教徒でもアラブ人である。イスラム教徒もアラブ人。クルド族もアラブ人。みずからをこのように幅広く規定した民族運動を、わたしは寡聞にして聞かない。*2


帝国との対決―イクバール・アフマド発言集 (Homo commercans), P57


さて、このような捉え方の前では「アラブ人はこうあるべき」という言葉と、「人間はこうあるべき」という言葉の境界は極めて曖昧です。この「アラブ人」という概念が示しているように、全ての思想は固有の関係性の中から産まれてきます。そしてその固有の関係性の中から、その固有性の中から、普遍的な概念が産まれてくるのです。それが人の生命というものです。そうであるとき、「○○主義は余分」なんていう乱暴な言い方は可能でしょうか。僕は、できないと思います。

全ての批判は原則として個別具体に対しておこなわれるべきです。乱暴な前提によってなされるべきではないのです。自身の観念が内省もなく普遍的であると考えるのは危険です。僕はもっと、人の思惟の持つ自由さを、多様性を信頼したい。そして偏狭な前提からその可能性を棄却するようなことは、とても悲しいことだと思っています。

*1:http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20090402/1238674472

*2:()の中は引用者による補足

「民族主義」

このエントリはid:mojimojiさんの「http://www.mojimoji.org/blog/nationalism2」への応答となります。


僕がmojimojiさんの一連のエントリを読んでいて最も違和感を抱いた点は、「民族主義」という言葉の使われ方だった。それがどのような違和感であったのかを、2つの点から書いていきたい。


まず第1に、この議論の発端となった在日コミュニティを取り巻く非対称性について。

たとえば、この「日本」の社会には様々な制度上の不公正や抑圧的な仕組みが存在する。そしてそれらの不公正が論じられるとき、それは、一般的には制度設計や普遍原則上の問題として語られる。ところがこの社会で「朝鮮総連の抑圧」といったものが話題になったとき、それは単に組織の在り様としての問題としてではなく、突然「民族主義」といったカテゴライズが登場し、そのような文脈の中で語られてしまう。

またたとえば、日本の学校では日本語教育がなされているが、それは、この社会を生きていくうえで必要な、基礎的な読み書きを学ぶものであり、それを学ぶことは自明なものであるとみなされている。ところが、在日コミュニティが朝鮮語の教育をおこなっているということがこの日本の社会で語られるときには、そこには突如として「民族主義」という文脈が浮上してきてしまう。

「日本人」のまわりを取り巻く状況は自明で普遍原則に従うものだとみなされて、彼らの営みのみが「民族主義」だとカテゴライズされる。それは同時に、そのカテゴライズの対象を「普遍原則に則していない存在」だとみなしていることをも意味している。だから彼らに対して、「抱えている抑圧的な問題を普遍的な原則に基づいて解決すべきだ」というお説教をする人まで出てきてしまう。つまり、「民族主義」というカテゴライズは抵抗や統合を希求する側が必ずしも主体的におこなうものだけではないのだとも言える。

そのカテゴライズをどの立ち位置にいる人間が語っているのか。それによって、カテゴライズは蔑視や暴力として作用する。その言葉をいったい「誰」が「誰に向かって」語っているのか、それがまず問われなくてはならないのに、問題は普遍的な原則の問題へと偽装されてしまう。このような問題が語られるときのこういった非対称性が、mojimojiさんの文章からは抜け落ちているように僕には感じられる。


そして、第2に、多様性の尊重という側面について。

以前僕は、ムハンマドの風刺画の問題について次のようなエントリを書いた。


風刺画の欺瞞 - 諸悪莫作
「被抑圧側の問題」について - 諸悪莫作
大峰山と風刺画と - 諸悪莫作


今読み返すと、顔から火が出そうになるくらい稚拙で恥ずかしい文章だけど、基本的な考え方はこれらの文章を書いた3年前からそれほど変わっていない気がする。

でも同時に、「これはちょっと違うな」、と感じてしまう部分もある。それは特に「「被抑圧側の問題」について - 諸悪莫作」で書いた

つまりある種のナショナリズムの発露は、現実にある抑圧へのカウンターであり、より排他的な状況がその前景にあるのだと言える


といった語り方だ。

この内容そのものが間違っているというわけではないけれど、抑圧に対するカウンター「だから」肯定されるべきだ、もしくは回復されるべきものだといった発想は、ちょっと違うのではないか、と最近思うようになってきた。そのような発想は、時として人間という存在を侮辱した発想にもなりかねない。抵抗があろうがあるまいが、人や集団が選択した営みは、原則として敬意をもって扱われるべきものだと言えるからだ。

mojimojiさんは「民族主義」を次のように定義している。

自らのアイデンティティの基盤として文化や言葉や歴史に依拠することそれ自体ではなく、ある文化や言葉や歴史に依拠することを「そうあるべきこと」として提示しようとする発想


でもこれは、そんなに簡単に割り切れるものなのだろうか。人が一定数寄り添い集団を形成したとき、そこにはその集団の歴史や経緯にともなって、固有の友愛の表現であったり、固有の倫理であったり、固有の規範であったりがうまれてくる。ある社会集団では抑圧的に見える規範も、他方の社会集団では親密さの表現としてみなされることもあるだろう。

一人の人間が生きていくということは、それらの関係性の中で自分が形成されていく、ということでもある。人が何かに依拠して自身をアイデンティファイしているとき、たとえ表象的にはそれが浅く狭い、卑小なものに見えたとしても、そのような多様な背景を抱えている。たとえそれが他人から見て奇異に見えたとしても、その人が産まれ、生きてきて、その中で様々な関係性を紡いできた、その集積でもあるのだ。そして危うい言い方かもしれないけれど、それは、独創性や創造性の源ともなり得る。

人のそのような背景と、それに依拠し「自分たちのあるべき姿」を想像する感覚は、簡単に切り分けることが可能なものではない。簡単に切り分けられる、と思っている人は、実際にはその観念自体が『人のそのような背景と、それに依拠し「自分たちのあるべき姿」を想像する感覚』に、つまり自身の生に基づいているということを見失っているのではないだろうか。もしくは、実際には自明性の中に生きてきて、それを問う必要に迫られることがなかっただけではないのだろうか。

だから、誰かが何かに依拠して「そうであるべき」といった主張をしているように見えたのだとしても、それを安易に(たとえば「民族主義」といった)カテゴライズを与え棄却してしまうということは、僕にはとても暴力的なことであるように思える。

ある人が抱く規範や観念が他の人にとって抑圧的に働くこともあるだろう。特定の社会集団の規範が別の社会集団にとって抑圧的に作用することもあるだろう。しかしそれらは、何が相互に許容でき、そして許容できないのか、もしくはどのように解消されていくべきなのか、同意形成の営みの中で、相互に確定し、そして解体されていくべきものではないだろうか。そしてそのような前提を持つことが、民主的な社会を基礎づけるものとなるのではないだろうか。僕はそう思うのです。(もちろん本当の意味でそのような営みがおこなわれるための前提として、第1の論点であげたような非対称性が僕たちの中で真に反省され、解体されるという過程が伴わなければならないということは言うまでもありません。)


…以上です。これでうまく応答できているのかは自信がありません。それに、僕の中にmojimojiさんの文章を過剰に読み込んでしまっている部分もあるような気がする。でも、取り急ぎ感じたままに、自分の中にあるものを未整理なまま取り出してみました。ご批判があれば、甘んじて受け入れます。


最後に、この件に関係なさそうで関係がある…ような気もする文章を2つ、紹介します。ものすごく勉強になります。
「断定と飛躍」、リベラリズム、相対主義〜自明性への問い - C am p 4   β version
ナショナリズムと人種主義――B・アンダーソン『想像の共同体』より - やねごんの日記


追記
コメント欄でswan_slabさんから自薦いただいた文章を紹介します。

マイノリティの人権という考え方 - C am p 4   β version

僕は「同意形成の営み」なんてぼかして書いてしまいましたが、このリンク先のコメント欄を読んで、それを具体化して語るには全然勉強が足りない、もっと勉強をしてもっと考えて、具体的に説得力を持つ内容を語れるようにならなければ、と思いました。

あってはならない

このようなこの種の問題で今まで、逮捕、強制捜査というようなやり方をした例は全くなかったと思います。まさに検察の強制捜査の、今回は、普通の従来からのやり方を超えた異常な手法であったと思っております。また、衆議院の総選挙が取りざたされているこの時期において、このような今までやられたことのなかったような異例の捜査が行われたことに関して、私は非常に政治的にも法律的にも不公正な国家権力、検察権力の行使だというふうな感じを持っております。

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090304dde007040049000c.html


司直による法の恣意的な運用なんて、今までだって周縁化されていただけで常にあったものなのだから、何を今更、ことさらこの事例だけを特別視して騒いでいるんだ、ましてやあの小沢なんだから擁護するには値しないだろう…そんな風に思っている人もいるのかもしれない。
でも、そう思っている人は冷静に考えてみてほしい。今までは周縁化されていたものがここまで露骨に姿をあらわし、そしてそれが許容され、状況が社会を圧倒していく。法の恣意的運用と、それに伴う掣肘する力の肯定、経済恐慌、そして極度の政治不信。それらが招来する未来を想像すれば、この事態に危機感を抱かない人はどうかしていると僕は思う*1

現実の問題として、たとえ抜け道的な献金であったとしても、法に不備があり合法となるのであれば、現状の議会制民主主義のもとではそこから先は主権者及び立法府の仕事だ。そこに捜査機関による法措定的運用の出番はない。そんなものは、あってはならない。

*1:もちろん、このような事態に到った原因は、周縁化されていた状況を許容し続けていたからに他ならないわけで、「何を今更!」という意見には僕としては「全くその通りです」と言いたい気分もあるのだけれど。

自戒

自身の言動を振り返ってみた時、ふと、ユングの次の一文を思い返すことがある。
ユングは、知識の増大や気づきによって時としてもたらされる二つの態度について、次のように書いている*1

[知見の増大によってもたらされた洞察は]それまで意識していなかった多くのことを、彼に示すのがふつうである。当然彼は、そのような認識をもって周囲をながめ、そうすることによって、以前見ることのできなかった多くのことを見る(あるいは、見たと信じこむ)。その認識が自分にとって助けとなったからには、他者にも有用なはずだと、つい思いこみたくなる。そうして彼は、善意かなにかのつもりだろうが、ややもすれば不遜になって、他人からは歓迎されなくなる。彼は、たいていの扉を開けることのできる、ひょっとしたら、すべての扉でも開けることのできる鍵を所有しているのだという気持になるのである。*2

[一方で、]得られる洞察は、いくぶん苦痛であることが多く、人が以前に影の面をなおざりにしていたならば(ふつうにはそうなのだが)、それだけいっそう苦痛である。だからなかには、新たに得られた洞察を非常に思い煩い、思い煩うあまり影の側面をもっているのは自分たちだけではないのだということを忘れてしまう人たちもいる。彼らはあまりにも意気消沈し、自分のことすべてに疑いをもって、何もかも間違っていると思いこんでしまう。(…)一方では楽観主義の結果、傲慢になり、他方では悲観主義のあまり極度に不安になり、小心になる。(…)一方での思いあがりと他方での小心は、ともに限度が守られにくいという不確かさを共有している。*3

両者はともに、あまりに小さく、あまりに大きい。(…)彼らは両方とも、一方はこちらに、他方はあちらにと人間としての均衡をふみこえているからには「超人間的」なものであり、したがって比喩的にいえば「神に似て」いるのである。もしこの比喩を用いたくないというのであれば、私は代わりに自我肥大という言葉を提案したい。*4


知識の増大や思惟の深化というものは時として、自身の善が補強されたという感覚であったり、または逆に自身の悪に直面させられた、という感覚を与えるものでもある。僕もご多分に漏れず往々にして、他者に対していきりたって拳を振り上げ、また一方で、意気消沈の中へと耽溺してしまう。もちろんそれらは決して意味のないことだとか、価値のないことだとか言うことはできない。しかし同時に、今までそういった時に果たして、どこまで自身の衝動であったり、状況に対して自覚的であったのだろうか、とも思う。その自覚が無ければ、どのような行為も、衝動や状況に対して受動的で主体性のない、ただただ、それらに押し流され、均衡をふみこえるばかりのものになってしまう。そして自身の均衡を欠いているのだから、自身と言動とが分裂した、そんな世界に生きることになってしまうだろう。

僕は今まで、何事に対しても結論を出すことが重要だと、どこかで思っていた。しかしそれは間違っていたのだと、今でははっきりと言える。少し矛盾した言い回しになってしまうけれど、結論をだそうとだすまいと、結局のところ常に結論をだしているし、常に選択をしているし、常に決断をしている。だから重要なことは、自分が今どのような状況に身を置き、どのような関係性の中にいて、どのような衝動を抱え、何を考え、そしてどのような決断をしているのか。それを見ることなのであって、それを伴わない結論は、どこか非個人的で、どこか反射的で、どこか鵺的で、一貫性を欠き、そしてなにより、それは弱いものになるだろう。

うまく言えないんだけど、そんなことをつらつらと考えている。

*1:以下はすべてisbn:4476012205。出版社がちょっとアレですが、気にしないでください。。ちなみに[]で囲んだ箇所は引用者による補足です。

*2:p41

*3:p41-42

*4:p43-44

これは「だからどうした」という程度の与太話です。どうか、無視してください。

気がつくと、前回の更新から半年以上が経ってしまった。自分の中にある恥じ入る気持ちを消し去ることができなくて、そしてブログを書く気にもなれなくて、いつの間にか、そんなにも時間が経ってしまっていたのだった。

直接のきっかけは、去年の6月頃にあった西成の「暴動」だった。

そのことについて何かを書かなくては、何かを表明しなくてはと焦って --- そしてその過程で、自分の中の恥じ入る気持ちに気がついて、僕は文章を書くことができなくなってしまっていた。

僕は恥ずかしかった。自分のブログで何かを吐きだして、そのことで多少は異議申し立てができたと満足してしまうことが恥ずかしかった。ブログを書いたその直後に、おいしく飯を食べ、そしてふとんの中で快適にねむる、そんな自分を想像して心の底から恥ずかしかった。それは、なんてお気軽なのだろうか。ブログでどんなに威勢のよいことを吐きだそうとも、状況自体はなにもかわらず、そして、その状況の中でこそ僕はのんきに過ごすことができるのだ。

最近もまた、同じような気持ちに囚われ続けている。正直、村上春樹なんてどうでもいいじゃないか、と心の底から思う。そのような話題は、ガザの人々のおかれている状況に比べてあまりにも軽く、あまりにも軽薄で、あまりにも不釣り合いなものなのであって、そんなことに関わりあっている暇があるなら、もっと彼らのためにやらなければならないことがあるのではないか、村上春樹のような個人にではなく、この日本という社会集団に対して、もっと真摯に訴えかけ、そしてその姿勢をこそ問うべきなのではないか。村上春樹がガス抜きのターゲットになってしまう、それは本当に情けなくて、そして恥ずかしいことなのではないのか ---。


結局のところ、僕という人間は傲慢なのだろう、と思う。まるで子供のように自分の中の衝動と自身の現実とのミスマッチに戸惑い、そしてその投影の結果、他者の務めにまでお節介にも、無責任な批判を押し付けようとする*1

だから、僕は自分自身に課さなくてはならない。自分の衝動に責任を持ち、そして地に足をつけて、いくばくかでもそれをこの世界に着床させるという営みを、覚悟を決めて歩むということを。

*1:だから、この文章から批判らしきものを感じたとしても、それは矛盾だらけで破綻しています。それは、タイトルにもあるように無視されるべきものです。

たとえ話をやめてみる

トリアージと選別 - 諸悪莫作」についたid:kmaebashiさんのブコメ

「たとえ話禁止」というのが今回の騒ぎの教訓だと思ってたんですが


はてなブックマーク - kmaebashiのブックマーク / 2008年5月28日

今回の件で言えば、僕は別に、そこから「たとえ話禁止」という教訓は得ていなかったりする。せいぜい『たとえ話はどこに争点があるのかをぼかしてしまう可能性があって、フレームになりやすい傾向にあるなぁ』ぐらいにしか思っていない。

当然だけど、適切な文脈の中でのたとえ話と不適切な文脈の中でのたとえ話があり得るわけで、でもそれって、別にたとえ話に限った話ではない。それに、たとえ話の文脈の背景にある論理や価値基準を対象として議論が発生したとしても、それも同様に、そういった形での議論の派生は、別にたとえ話でなくたって普通にあり得る。

ただ、「トリアージと選別 - 諸悪莫作」の前半で書いたたとえ話に関して言えば、あれが適切であったのかは激しく微妙な気がする。読み返してみると、あの譬えは別にわかりやすくもなんともないし、全然面白くもない。なんであのような表現にしたのかと言えば、「なんとなくそんな風に書いてみたかった」という以上の動機を自分自身の中に見つけることができなかった。なので、あの譬えで書きたかった内容をもう少し直接的な表現に書き改めてみようと思う。(と言うわけで、id:kmaebashiさんのご指摘は「しょうもないたとえ話ではぐらかしたり、何かを語った気分になるの禁止」という意味だと受け取って、ご指摘、深く感謝します。)
そしてこれから書く内容は、同時にid:z0racさんの「id:t_keiさんにお返事 - z0racの日記」への応答でもある。


トリアージ」という概念は文字通り「選別」を意味する。それは先のエントリでも書いたように、極限状況下においていったん倫理を棚上げして、機械的に「命の選別」をおこなうということであるし、それはつまり、生と死についての審判を一方の側がおこない、その結果として犠牲となる一方の側が存在するということでもある。なるほど、そのことによってより多くの人の命を救う結果になる「かもしれない」*1。しかしだからといって、そこで命の選別がおこなわれ、誰かを犠牲にしたという事実、そして誰かを切り捨てる判断をしてしまった――そしてそのような判断の責を誰かに負わせてしまった――という事実は残る。そして「前トリアージ的選別とその延長線上に - 諸悪莫作」で書いたように、「選別」という行為は、そこに非対称性が存在しなければ成立し得ない。実際選別される側の人間は、その状況において抗弁する機会を得ることはない。ただ、タッグが付されるのを待つだけなのだ。

いみじくもid:hokusyuさんがブコメで指摘しているけれど、

まあ、医療におけるトリアージならいいかと言うとそれも違うのだよな。


はてなブックマーク - hokusyuのブックマーク / 2008年5月28日

これは全くその通りなのであって、だからこそ、たとえ事後的であったとしてもより一層倫理的であることが要請されもするし、また同時に「あってはならないこと」として、僕たちはそれを政治的な対象にしなければならない。そして先のエントリで書いたように、そもそもそのような「トリアージ」の状況自体が、まさしく政治の産物なのだと言える。人の生死を扱っている以上、そこには利害の衝突が発生するし、そうであるなら、それを政治的文脈から独立して語ることは、率直に言ってできはしない。

そのような「トリアージ」という概念を経営に敷衍して、「全体からみた最適化」について語る人がいたとしたなら、それはあまりにも安易なことだと言える。そしてそれは当然、批判の対象足り得るし、実際に批判がおこなわれることになるだろう。

そしてその批判の際には当然ではあるけれど、「トリアージ」という言葉は使わざるを得ない。そしてまた、その語られた「語り口」の文脈や、その背景も俎上にあげなければならない。しかし、もしもそのような批判の仕方を取り上げて、『そのような批判はトリアージという概念を政治的に利用している』と言う人がいるのであれば、それはあまりにも奇妙な言い分だし、それは明らかに顛倒しているのではないか、と言わざるを得ない。そして僕には、id:z0racさんの批判がそのような奇妙なものにしか見えない。

id:z0racさんは

id:t_keiさんが「トリアージ」と云う実に便利な言葉を使って、ご自分の政治的主張をなされていることは始めから了解していますから。

ブクマコメでもその点を指摘したつもりです。


id:t_keiさんにお返事 - z0racの日記

と言っている。でも、それではこう尋ねたい。id:z0racさんが考えている「政治性」「政治的」とは、いったいどのような意味なのだろうか。それがはっきりしない限り、僕としてはid:z0racさんの批判の妥当性を判断できない。そして実際、id:z0racさんは何も言っていないに等しい。




うーん、それにしてもこれってまさしく、id:mescalitoさんが「論壇系ブログにおける討議モデルについてのコンセンサス - C am p 4   β version」で論じていることそのままだよなー*2。もっと真剣に考える必要がありそうだ…。

*1:ところで、トリアージに関しての科学的エビデンスってあるのだろうか? たぶんあるのだろうとは思うけど、トリアージを神聖視する人も含め、誰もそれを提示しないのはなぜだろう。

*2:id:mescalitoさんへ。もしリンクするのが不味ければ、この段は削除します。